✶ 第六幕 シウンの秘術

 ミカヅキの決死の目くらましの術によりガモンらの魔の手を逃れたシウンは、一度は姿を隠したものの、途中で待ち伏せをしてガモンらを尾行した。

 彼らは恐るべき脚力を発揮し、藪を切り開きながらほとんど一直線に比叡山地を登って行った。稜線を越えると、一条寺勢ヶ谷から音羽川沿いに山を下る。シウンは見失わないよう懸命に後を追い、ミサキーネのキョウト調査員が言っていた通り、ニシキマーケットの近くの町家に入って行くのを確認した。

 ミカヅキは千年前の血の契りに従って、二度までも自分を助けてくれた。そして、今は囚われの身となってしまった。このままコノへワナキへの旅を続けるわけにはいかない。

「今度は、私がミカヅキ様を助ける番だわ」

 シウンは心に誓いながら、胸を締め付けられるような思いに駆られた。ガモンらに対する恐怖ではない。シウン自身はまだ気づいていなかったが、ミカヅキへの恋心が芽生えていたのだ。シウンが二十歳にして初めて知る感情だった。

 シウンはニシキマーケットを離れ、かつて六波羅と呼ばれた場所にある兼正家の門をたたいた。六波羅とは鴨川東岸の五条大路から七條大路までの古い地名で、鎌倉幕府が朝廷を監視するために設置した行政機関、六波羅探題が置かれたことで知られる。兼正家は、現在は東橘町と呼ばれる鴨川に面した一角にある。

 見た目には、広大な敷地を持つ剛健な古刹のようだが、ガモンの要塞と同様に、地下に警察本部の指令室に似たITを駆使した施設がある。俗に「キョウトタンダイ」と呼ばれ、コト・キョウトとカンサイ・エリア一帯を監視し、一般市民の目には見えないダークサイドでの犯罪を取り締まっている。その活動範囲は、時に四国、九州を含めた西日本全域にも及ぶ。

 シウンは、兼正家の表向きの家屋である寺院造りの客間に通された。障子は開け放たれているが、特殊な空調設備により、部屋の中は快適な気温、湿度が保たれている。廊下の向こうに、見事な庭園が見える。鎌倉時代の禅僧、夢想疎石の作とされ、見ているだけで心が落ち着くと同時に、自分がなすべきことが明確に認識させられる。そんな不思議な力を持つ庭だ。

 当主の兼正左近は分厚い杉材でできた廊下を歩いて来ると、そのまま廊下に腰を下ろして胡坐をかいた。江戸時代以前は、男子の正式な座り方は胡坐だった。兼正左近はその儀礼に則って挨拶する。

「シウン姫、初めてお目にかかります。兼正左近でございます」

「兼正様、そ、そのようなところで……。私、困ります。どうか上座においでください」

「いえ、千年の昔、我らが祖先の琴は、シガツ一族の方々に命を助けられました。琴が嫁いできてから、兼正家は朝廷において重んじられるようになったと、代々言い伝えられております。その兼正家にとっても大恩人であるシガツ一族の姫の上座に、この左近が座るわけにはまいりません」

「では、せめて座敷に入られて、私とお向き合いください」

 兼正はようやく座敷に入り、シウンの正面に座った。

 執事が二人の前に茶を置いて、下がって行った。シウンは正面に端座した兼正を改めて眺める。陰の朝廷の命を受けて数万人の武装部隊を動かし、ダークサイドの悪と闘う組織の長とは思えないほど穏やかで、物静かな気配を漂わせる人物だ。

「シガツ一族の棟梁ペンハーンの娘シウンでございます」

 兼正はシウンに茶を勧め、自らも一口すすってから切り出す。

「シウン姫はコノヘへの旅の途上とお聞きしております。先をお急ぎのはずでしょうに、わざわざこの兼正家をお訪ねになられたのには、何か理由がおありなのでしょうな」

 兼正はいきなり本題に入ってきた。シウンの顔を見て、切迫した事態を感じ取ったのだ。

 シウンはまず、ミサキーネのキョウト調査員から聞いたガシュー一族とその手先のガモンたちの動きを説明し、ニシキマーケット付近の地下要塞について話した。兼正は腕を組み、瞑目して聞いていた。

「貴重な情報をありがとうございます。それにしても、シガツ一族の方々の情報収集能力には恐れ入ります。われわれもニシキマーケット一帯での不穏な動きは察知していましたが、そんな要塞が造られていて、しかも、それを造ったのがカントー・エリアを地盤とするガシュー一族とは。ガシューもいよいよ全国制覇に動き出したということですな。早速対処いたしましょう」

「ありがとうございます」

「それで、もう一つは、何事ですかな?」

 兼正はシウンがほかにも問題を抱えていることを見抜いていたのだ。シウンはミカヅキのことを話しそうになったが、辛うじて言葉を飲み込んだ。ガシュー一族の動向は公の要件だから兼正に伝えたが、ミカヅキ救出はシウンの個人的な願望に過ぎない。

「兼正様、お庭には古くからの井戸があるとお聞きしましたが……」

「庭の南東の隅に、東山と山科を分ける六条山の伏流水を汲み上げる井戸があります。夏場のこの季節でも身を切られるように冷たい湧き水です」

「その井戸をお貸しください」

 兼正は、シウンが戦いの目に身を清めようとしていることに気づいた。

「身を切られるように冷たいと申したはずですが」

「はい、それがちょうどよろしいのです」

「左様か。ならば、すぐに周囲に幕を張らせましょう」

「お心遣い、ありがとうございます」

 兼正は「幕」と言ったが、井戸をすっぽりと覆うように張られていたのは、二十畳ほどもある大型のカーキ色のテントだった。キョウトタンダイの戦闘員たちが野営に使うものなのだろう。

 中に入ると、中央に古めかしい手押しポンプが付いた石組みの井戸がある。シウンはポンプのレバーを数回上下に動かし、注ぎ口から清冽な水が勢いよく噴き出すのを確めた。檜の桶に溜まった水は、本当に氷のように冷たかった。

 シウンは満足げにうなずくと、その場で衣服を脱いで全裸になり、汲んだばかりの井戸水を頭から浴びた。ポンプで井戸水を汲み上げては、頭から浴びることを十回も繰り返すと、シウンの肌は薄紅色に染まり、全身から湯気が立ち上り始めた。

 シウンは身体を拭き、シガツ一族棟梁家の女性の正装をまとっていく。それは聖なる戦いをする際の戦闘衣でもある。

 着替え終えたシウンが屋敷に戻ると、兼正は先ほどの座敷に座り、数人の部下に矢継ぎ早に指示を出していた。シウンは話が終わるのを待って、座敷に入って行った。

向かい合って座るシウンを見て、沈着冷静な兼正左近もさすがに驚きを禁じ得なかった。ハイキングウエアを着たシウンも美しかったが、聖なる戦闘衣に身を包んだシウンは光り輝いて見えた。まるで後光が射しているようだ。

「では、兼正様、お世話になりました。ガシュー一族のこと、私も無事戻りましたら、ご助勢いたします」

「シウン姫、本当にお一人でよろしいので?」

「はい。一緒に戦ってくれる仲間を呼び寄せますので、大丈夫です」

「承知つかまつった。では、事が終わりましたら、必ずこのキョウトタンダイに戻ってきてください。よろしいですね?」

「はい、ありがとうございます。必ず戻ってまいります」

シウンは暇を告げて兼正家の門を出ると、鴨川の河原に下り立つ。

 親指と中指の先端を合わせた両手を胸の前で構えて印を結び、シガツ一族が古代の南九州に暮らしていたころの言葉で呪文を唱える。すると、紫色の雲がどこからともなく湧きたち、雲一つなく晴れ上がっていた空に広がっていく。昼下がりだというのに、キョウト一帯は皆既日食でも起きたかのような暗さに覆われていく。

 道行く人たちがその変化に気づき、紫色の雲を見上げたとき、四筋の稲妻が鴨川の河原に立つシウンの周りに落ちた。次の瞬間、落雷した場所に四人の女のNINJAが立っていた。シウンの秘術によって呼び出された『W-NINJA』と呼ばれるくノ一軍団だ。

 四人は前後左右から取り囲むようにシウンの足元に片膝を突き、頭を垂れる。

「シウン様、お呼びで?」

 四人の筆頭格のジングウが尋ねる。

「私の大恩人、マリシエイNINJYAがガシュー一族の手先、ガモンに連れ去られてしまったのです」

「ミカヅキ様のことですね? ミカヅキ様とガモンの闘いはダークサイドでは知らぬ者はおりません」

「それなら話は早い。ミカヅキ様は今、ニシキマーケットの近くの秘密要塞に囚われておられる」

「行きましょう!」

 四人の姿は瞬時に見えなくなった。 ニシキマーケットに先回りしたのだ。

 シウンがマーケットストリートの東端に到着するまでのわずかな間に、四人は秘密要塞の構造についてかなりのことを調べ上げていた。

「シウン様、鴨川にかかる四条大橋のたもとに要塞に通じるトンネルの入り口があります。シウン様はそこから入って行かれ、ミカヅキ様をお助けください。私はシウン様に変身して、オトリとなってメインゲートの土蔵から侵入します。ほかの三人がシウン様を援護いたします」

 ジングウがミカヅキ救出の作戦を簡潔に説明した。四人は戦闘専門の実戦部隊で、このようなミッションでは場数を踏んでいる。シウンは彼女たちが立てた作戦に従うのが最善だと判断した。

「ありがとう、ジングウ。そのようにいたしましょう」

 シウンは自らの髪の毛を一本抜いて、ジングウに渡す。ジングウはその髪の毛を自分の髪の毛に編み込んだ。すると、その姿はたちまちシウンと瓜二つとなった。シウン自身ですら、鏡を見ているような気持ちになったほどだ。

「さあ、みんな、シウン様をご案内して」

 シウンと三人のW-NINJAは四条大橋の下の河原に下り、大地のエネルギーを源とするイザナミが護岸の石積みの一つを指で押す。すると、巨石が音もなく奥に引き込まれていき、人一人がくぐり抜けられるほどの大きさの入り口が現れた。その中は真っ暗なトンネルだ。

 火をエネルギーの源とするオキツが背中の忍者刀を抜き、漆黒の闇の中に躊躇なく入って行った。オキツ自身が松明のように赤く発光して、トンネルの中を照らす。海をエネルギーの源とするオトタチバナが続いて中に入る。

「シウン様、どうぞ先にお入りください」

 シウンは残ったイザナミに促され、トンネルに入った。その中は入口よりもかなり広く、大柄な人間でも楽に歩ける高さと幅だ。非常用の通路らしい。

 トンネルを五百メートルほど進んだところで、先頭を行くオキツが立ち止まり、みんなにしゃがむように手で合図する。トンネルの天井に丸いハッチがあった。

 しばらく待っていると、地上からかすかな振動が断続的に伝わってくる。シウンに化けたジングウとガモンの手下たちとの戦闘が始まったのだ。

 オキツに肩車されたイザナミがハッチのレバーを回すと、カチッとロックが解ける音がした。静かに押し上げ、目だけを出して眺めると、そこはガランとした倉庫だった。中央に置かれたテーブルに、グルグル巻きにされたNINJYAが横たわっている。すぐにそれがミカヅキだと分かった。そばに黒ずくめの衣服を着た男がいたが、風を操る能力を持つイザナミがフッと息を吹くと、男は壁に吹き飛ばされ、気を失った。シウンと三人のW-NINJAは中に入り、ミカヅキに巻かれているベールをはがそうとするが、とても歯が立たない。

「みんな、下がって。ミカヅキ様、少し我慢してください」

 火を操る能力を持つオキツが指先から火炎を放射すると、さすがのセツエンのベールもチリチリと燃え始めた。火炎がミカヅキの身体を焦がす直前、ミカヅキが気合もろとも全身に力をこめると、ベールは切れ切れに裂けた。

 ミカヅキは、一度はセツエンのベールに気力と体力のすべてを吸い取られた。しかし、ゲアツァが超音波や電磁波、放射線などを大量に浴びせてくれたおかげで、ミカヅキ神経伝達物質が刺激され、身体中の脂肪が覚醒され、再び本来の力を取り戻していたのだ。

「ミカヅキ様、ご無事で?」

「私は大丈夫ですが、姫はどうして?」

 そのとき、隣のオペレーションルームに通じる扉が開き、ガモンの手下に見つかってしまった。

「敵だっ! 敵が侵入してきたぞ」

 イザナミが手下を吹き飛ばすと、扉が自動的に閉まった。その隙に、水を操る能力を持つオトタチバナが呪文を唱える。すると、ドドドドドッという地響きに似た振動ともに、先ほど入って来たハッチから大量の水が噴水のように噴き上げてきた。オトタチバナが鴨川の水を吸い上げているのだ。

 たちまちのうちに、体育館ほどの大きさの倉庫の天井近くまで水で満たされた。ガモンの手下たちが扉を開けようとしているようだが、水圧が大きいために開かないのだ。

 オトタチバナに促され、皆が水中に潜り、ハッチからトンネルに入る。すると、水がすさまじい勢いで逆流を始め、シウンたちはトンネルの中を超高速で流されて行く。と、次の瞬間には鴨川の河原に流され出ていた。不思議なことに、誰一人として水に濡れてはいない。

「シウン様、ミカヅキ様、手荒な真似をして、申し訳ありませんでした」

「何を言いますか。三人のおかげで無事、ミカヅキ様をお助けできて、何よりです」

「私からもシウン姫や皆さんに礼を言わせてもらう」

 そこに元の姿に戻ったジングウが合流する。ガモンやその手下たちと闘ったために衣服はあちこちが千切れたり、擦り切れたりしているが、幸い身体にはかすり傷一つ負っていないようだ。

「ガモンは追ってはこないのか?」

「いいえ。逆に、手下たちが追おうとするのを止めておりました」

 そのやり取りをミカヅキが引き取る。

「二日後にはあの倉庫に大量の武器、弾薬が運び込まれる。今、無理をして後を追わなくても、いずれは決戦を迎えるのだから、そのときに決着はつけられる。それよりも、今は武器、弾薬の受け入れに万全を期すことを優先したのだろう」

「二日後に武器と弾薬が?」

「そうです。私が気を失っているものと思って、ガモンが話していました。油断も隙も多いヤツだ」

「では、急いで兼正様の家に戻り、ミカヅキ様の情報をお伝えしなければ」

「シウン姫、私も姫と一緒に兼正氏に加勢いたします」

 ただそれだけの言葉に、シウンは感激のあまり思わず涙ぐんでしまった。

 だが、シウンのそんなセンチメンタルな感情も兼正家に到着するまでだった。兼正家ではすでに戦いの準備が始まっていた。

 広大な敷地には、シウンが禊に使ったのと同じ大型テントが何張りも所狭しとは張られ、その間を戦闘員たちが隊列を組んで走り回っている。

 準備の進行を見回っていた兼正左近がシウンとミカヅキ、それに四人のW-NINJAを見つけ、駆け寄ってきた。

「シウン姫、よくぞ無事にお帰りを。こちらの方がミカヅキ殿かな?」

「兼正様はミカヅキ様をご存じなので?」

「いや、お目にかかるのは初めてだが、お噂はかねがね。今回のシウン姫との経緯も聞いておりますぞ」

 兼正はいたずらっぽくシウンの顔を覗き込むように言った。はにかんでうつむくシウンに、ミカヅキが助け船を出した。

「兼正殿、お初にお目にかかる。マリシエイ一派のNINJAミカヅキと申します」

「これは失礼いたした。キョウトタンダイ長官、兼正左近です。」

「シウン姫と一緒に、兼正殿に加勢させていたく参上しました」

「それはありがたい。シウン姫とミカヅキ殿のご加勢があれば、まさに百人力、いや万人力じゃ」

 その夜、兼正は庭の中心に設けられた石造りの大きな囲炉裏に火を熾し、野趣豊かなバーベキューでシウンらをもてなした。簡素ながら心のこもった宴の後、シウンは兼正家の座敷で、W-NINJAたちは次の間で眠った。ミカヅキにも別の座敷が用意されたが、ミカヅキは屋敷の中で眠ることを固辞し、庭の木の中で一番高い北山杉の古木の枝に身を潜める。

 ミカヅキは夜明けまでに、ガシューが放った三人の斥候を生け捕りにした。